13話 「楽」せず「楽しむ」

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「楽しみ」には、「一過性の楽しみ」と「継続的な楽しみ」の2種類があると思う。

「一過性の楽しみ」は、ご飯や昼寝、温泉などその瞬間に楽しさや喜びを見出すタイプのものだ。

一方、「継続的な楽しみ」は、スポーツや学問、音楽などその瞬間ではなく継続することで楽しさや喜びを見出すタイプのものだ。

継続的な楽しみでも、瞬間的な楽しさはある。

例えば、サッカーで点を決めた瞬間、ホームランを打った瞬間などがそうだ。

しかし、瞬間の楽しさは継続から生まれた結果であって、一過性の楽しみとは違う。

では、一過性の楽しみと継続的な楽しみの明確な境目はどこだろうか。

自分は「成長や自己研鑽が必要かどうか」が基準だと考える。

一過性の楽しみは成長や自己研鑽が要らず、誰でも等しく楽しむことができる。

そのため、スポーツや勉強、音楽であっても家族や友人、個人で手軽に楽しむ場合はこちらに属する。

手軽に楽しめるからこそ人気があり、それが好きな人は多いのだと思う。

一般的に、誰でも適用可能な楽しみがそこにはある。

「一過性の楽しみ」は楽なのだ。

一方で、継続的な楽しみには我慢の時期がある。

楽しむために技術や知識が必要だからだ。

全くの素人が経験者と混ざってやると実力差が如実に現れる。

だからこそ素人はそこに近寄りたがらず、そもそも近寄れない。

一過性の楽しみの例に挙げた「食事」であっても、料理人や研究家が真剣に味わい思考する時、そこに一過性の楽しみは存在しない。

どちらが良いとかは全くないが、それでもこう聞くと一過性の楽しみの方が簡単に楽しめて良い気がする。

しかし、継続的な楽しみは一度味わうと魅了されてしまう。

悩んで、苦しんで、もがいた先に待ってる景色は絶景なんてものではない。

自分は数学で1度味わった。

大学3年生の後期のとある一週間強、たった一問にずっと向き合っていたことがある。

登下校中ずっと考え、考え過ぎて車に轢かれないように裏道を歩いた。

一時的にひらめきがあると、その場に座り込んでノートに書き殴った。

図書館に何度も足を運び、近い分野の本を読み漁った。

褒められたことではないが、授業中もバイト中も注意しないとその問題のことを考えてしまった。

そんな中のある日、シャワーを浴びている時に解法への発想が閃いた。

慌ててシャワーを止めてタオルを巻き、ノートと鉛筆を手に取った。

それまでも数回ほど閃きはあったが、調べてみると誤りが見つかっていた。

しかし、その時はなぜか合っていると確信した。

嬉しくて眠れなかった。

数学が心から好きになった瞬間だった。

次の日、専門分野の教授のところに駆け込み、説明した。

しかし、そんな確信したものすら、誤りがあった。

教授の手にかかれば一瞬だ。その場で答えを教えてもらい、解説までしてくれた。

自分は難しく考え過ぎていたようで、すでに知っていた知識だけで解けた。

それが悔しくて悔しくて堪らなかったが、それと同時に今までの心のしこりのようなものが取れた感じがした。

結果として解けていなかったわけだが、あの閃きに勝る経験はなかったのではないかと思う。

それ以来、勉強がそんなに好きでもなかった自分が数学から離れられなくなった。

一時期は数学を一生探求したいとも思った。

ただ、自分には才能がなかった。

そして、今までの努力が圧倒的に足りなかった。

自分が頭抱えた内容も、同級生は解けていた。

友人が話す数学の話が理解できないことがあった。

勉強量でカバーしようとするも、既に大学4年生になっていた。

そんな自分に院進の選択肢はなく、就職をした。

きっと第一線で活躍されている方々は、もっと深く濃密な失敗と成功があるのだと思うようになった。

それでも、自分もその一端を垣間見れたのはとても良い経験だった。

継続的な楽しみはこういった魅力を内包している。

決して「楽」ではないが、とても「楽しい」。

これからも本気で「楽しむ」ために、しっかり準備をしていこう。

今度は気付くのが遅かったなんて思いたくない。

目の前のすぐ手に届く楽しさもいいが、たまには高く高く手を伸ばすのも悪くない。

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